ヒヤシンスの咲く丘で


祖父が亡くなった。享年90歳。大往生だ。私が祖父と頻繁に会うようになったのは、ここ5年くらいで、祖父がグループホームに入所してからだった。頻繁に会うといっても数ヶ月に一度だ。でも、昔に比べたら距離的にも時間的にも短い長さになった。痴呆が始まってから、祖父は私のことを忘れてしまった。でも、痴呆が始まる前からほとんど会う機会もなかったし、そんなに孫や子供が好きな祖父でもなかったので、元々私のことは認識していなかったかもしれない。まぁ、そんなことはどうでもいいのだけれど、人が死ぬっていうのは何度経験しても慣れるものではないし、その度に死というものへの概念が変化していく。人の死は、感情的なものだけじゃなく事務的にもとても大変な出来事である、ということがよくわかった。祖父と会ったこともない人や、知りもしない人であっても、近所に住んでいればお線香をあげにやってくる。かといって、身内であってもお葬式に出ない人だっている。人間の一生っていうものは、物語のように単純ではなくて、どこの誰にでも汚い部分がたくさん詰まっているんだ。親と子、兄弟、親戚・・・血のつながりを持つ者には必然的に憎しみや憎悪が付いて回るものなのだろうか。どんなにきれいごとを言ったって、昔から心に秘めてきた憎しみは消えることなく爆発するものだ。祖父の死によって爆発した内縁の憎しみ。こんなことドラマの世界でしか起こらないものだと思っていた。恐ろしい。こうなるだろうと思っていても実際に争われると、人間の恐ろしさを身をもって感じる。四十九日が憂鬱だ。祖父も天国できっと呆れている。そして同時に責任を感じているはずだ。いや、いて欲しい。「私はおかしいか!?」と責め立てられる彼女達の姿を思い出すと、涙が出てくる。私にはどうしようもない状況だったけど、同情するだけで他に何もしてあげられない自分が虚しかった。